神学・近代学問(自然・社会科学) の記事一覧
- 2011/05/05 本来の「中道」とはなにか ~中観や平衡との違い~
- 2010/03/06 分裂するオカルト批判 -科学崇拝の危うさ・未来予測は永久不滅-
- 2010/02/01 神学 vs 近代学問 (理系・文系を分離させることの危うさ)
- 2009/11/27 マイケルジャクソンがエホバからイスラム教になったワケ4
- 2009/11/27 マイケルジャクソンがエホバからイスラム教になったワケ3
本来の「中道」とはなにか ~中観や平衡との違い~

Twitterで「お釈迦様は中道だから苦行はしていない!」「現実的に考えて苦行なんてしてたらお釈迦様はもっと早くに死んでるだろ!」と言う、根拠のない詭弁なコメントを頂き、
「あぁ…日本人のお釈迦様への認識もここまで新興宗教に侵食されたのか…」と落胆しました。
同時に考えるきっかけを与えてくれたので感謝しつつ、簡易的ではありますが記載します。
釈迦は、確かに「中道」を悟りました。しかし、それは修行で苦行した後の話です。
最初から「中道」を説いていたわけではありません。
これは釈迦が生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解するまでのスジャータの物語や、上座部仏教について歴史を正しく理解していれば、誰でも知っていることです。
現在でも、釈迦に近い教えを受け継ぐ原始仏教のダライラマのチベット仏教のゲルク派やカギュ派、スリランカ仏教でも見れば分かると思います。
そして、お釈迦様の「中道」は本来、日本人の考えるような「極端に偏らない。楽観主義と厳格主義の間を生きよう。」という意味ではありません。
「中観(ちゅうがん)」を理解しないと、本来の「中道」の意味は分かりません。
そして、この「中道」と似ているからと言って混同させると、極めて危ない言葉もあります。
特に、「中道」「中観」「中庸」「平衡」。他に「中間」「中立」「客観」「均衡」「平均」、更に「平等」「公平」です。
きっと日本人の大半はこれらの言葉の区別が付いてないと思います。全部同じ意味に思ってることでしょう。
これも日本が世界普遍的価値のリベラル・アーツの学問体系でない弊害だと感じます。
これらについて一つずつ、解説します。
●「中道」と「中観」について
まず「中道」は仏教の教えです。意味は感覚的にご存知な人が多いと思いますが、「中観」とは出たルートが違います。
「中道」は相応部の初転法輪(パーリ語)で八正道の最初に説かれます。また倶舎論(サンスクリット語)や雑阿含経(漢語訳)でも出てきます。
仏教の学問的な事実(fact)を探求すると、当然「釈迦の教えに近いこと」が重要視されます。
釈迦は対機説法(たいきせっぽう)と言って言葉からの悟りを重んじました。よって原始的なお経はあまり残されていません。
そこで、どの言葉を用いたかと言うことですが、釈迦は地元の「マガタ語(釈迦語)」を使っていました。
しかし、原始仏教典は口語であるパーリ語が主です。
更に釈迦の死後の数年後には、すでにサンスクリット語と呼ばれる高貴な言葉の経典ばかりになりました。
つまり古さで言うと「(古)←マガタ語<パーリ語<サンスクリット語<漢語→(新)」なのです。
当然、釈迦はサンスクリット語なんて、貴族しか使えなかった文語の言葉は使っていません。
口語であるパーリ語でもギリギリ怪しいです。
つまり、新しい経典ほど、釈迦の本来の教えから遠ざかります。
日本に入ってきたような仏教は、中国仏教の「漢語」を、更に漢文で日本語に訳しているので完全に遠ざかってます。
「中道」はパーリ語ですが、日本に入ったのは本来のパーリ語的な意味でなく、中国の道教の影響を受けた漢語訳の経典モノ(偽経と呼ばれてます)で「極端に偏らない」という意味では、実は本質的に説明不足なのです。
まして「楽観主義と厳格主義の間を生きよう」という意味でもないです。
そこで「中観」の意味が重要になります。
これは釈迦の考えと行動を正確に受け継いた龍樹と呼ばれる人物の中論によって説明されたモノで、「一心三観」での説明が分かりやすいです。
一切の存在には実体がないと観想する「空観」と、仮に現象していると観想する「仮観」、その間の「中観」です。
極端に言うと、空観だけだと全てが空と悟って瞑想に自己陶酔するだけで怠惰になる、仮観だけだと全てが妄想なのでどんな悪行も許されてしまう。そこで間で「中観」を取りました。
全てが仮の仮観でも、空の「縁起」の思想が入れば「全てに意味がある」と解釈されるので、事象の関係性や利他的な心を生み、悟れるのです。
この「中観」が釈迦の本来の教えの「中道」の意味に近かったハズなのですが、漢語版で偽経の中国道教と日本仏教のフィルターを通したせいで「極端に偏らない。間を生きよう。」と、かなりアバウトに解釈されてしまいました。空観も仮観も、解釈されなくなりました。これにより「中道」が権力者に都合の良い解釈になりました。
「中観」と言った場合、「悟りのための観察法」を指すハズが、中国道教や日本仏教の「中道」の感覚だと解釈が違います。
お金持ちと貧乏人で例えれば、年収1億の人の中道が5000万なら、年収200万の人の中道は100万です。つまり権力者(当時の僧侶)や金持ちの人が、下の者に「中道」と説教して抑えつけることができるのです。
これで「中道」と「中観」の違いについては、歴史的な解釈の古さから「中観」の教えの方が本来の「中道」の教えということがご理解頂けたかと思います。
●「中庸」と「平衡」について
次に「中庸」ですが、これは儒教の教えなので、釈迦の原始仏教とは相当遠ざかっています。
どちらかというとアリストテレスの説いた「平衡」に近いですが、内容は全く違います。
「平衡(equilibrium)」は、アリストテレス論理学で、有か無か、正か誤か、などの二分法的な結論のもので、突き詰めると、お金で人間活動のすべてに釣り合い=均衡を与えるという冷たい思想です。
この論理がその後のユダヤ教の中にratio[ラチオ:理性(=拝金と強欲の思想)]を植え付けました。
なぜ二分法を突き詰めると金儲けの思想になるかというと、アリストテレスの「分配的正義」で説明できます。
例えば、加害者と被害者がいて、双方を明確に「善」と「悪」に切ることは出来ません。
なぜなら双方に殺す理由、殺される理由や、環境的な経緯や事故的な偶然性もあったわけだからです。
それで天秤にかけて「どちらの正義が重いか、軽いか」を測るわけです。これが「法学」の始まりです。これは今も各国の裁判所に置かれる「正義の女神ユースティティア」が象徴的です。片手に天秤、片手に剣で裁きます。重要なのは「目隠し」で、これは「自分はどちらが正義かどうかは分からない」という意味です。
「正義の女神ユースティティア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%A5%9E
他に「目隠し」に関しては、実は女であり、裏に男の権力者がいる、つまり「法は権力者が決めるデタラメなモノ」という解釈もあります。おそらく両方の意味があるでしょう。この「秤」という「平衡」の思想が、「利益配分」という儲け主義に繋がっていったのです。
余談ですが、日本ではこの正義の女神の代わりに裁判所に「観世音菩薩」を置いてるので、全く本来の法学を理解していない証拠です。
また正義論では、このアリストテレスのユダヤ教的な「弱肉強食の正義(強い者が強い正義)」に対して、イエスが対抗したキリスト教的な「弱者救済の正義(弱い者を守る正義)」があります。
これで「中庸」と「平衡」の違いについては、儒教の教えとアリストテレスの教えで、根本的に論理も違うことが分かりました。
「中間」「中立」は説明するまでもないとして、「客観」は主体から「観るもの」に対しての「観られるもの」で、これがどこまで事実(fact)かは、唯物論や独我論や唯識論とか認識論の差異です。
●「平均」と「均衡」について
「平均」は産業革命後に金持ちから貧乏までの階層社会を抽出するために発展したもので、統計学では「正規分布」と言います。ベルマークをイメージすると分かりやすいです。しかし最大の弱点があり「異常値(外れ値)に対応できない」のです。
正規分布(平均)のベルマークは、山の真ん中ほど人が集中していて、山の裾の尾ほど人が少なくなっていく「前提」になっていますが、重要なのは、山から外れるに連れて「急激に人が少なくなっていくこと」です。
例えば、学校でテストを作って先生が「平均点は○○」と言いますが、あれは大ウソです。
「平均点に大多数が集中していることなどありえない」のです。
先生の指導書には、生徒が全体的に平均点に集まってくれることを理想とするでしょうが、確実に点数の極端に高い人、極端に低い人が出ます。
平均という正規分布の山は、確かに山の形になるでしょうが、その山の高さや低さ、裾の尾の広さや奥行きは考慮されてません。つまり数学のテストで、多くが30点以下で、一部が100点採って「平均点は50点」と言われても、50点前後に人が集中しているワケではないのです。
例えば、サブプライム・ローンも、ローンの返済能力を階級別にしてローンを組ませて証券化しました。確実に返済できる人は90点、返せなさそうな人は50点、そこで正規分布(平均)を見て「まぁ50点の人も90点の人に混ぜて見れば返済できるよね」と甘く考えて、平均に騙されて破綻しました。
「均衡」は、ワルサスの一般均衡で語られるような経済学での需要量と供給量が釣り合う意味でよく使われます。アダム・スミスの「神の見えざる手」もそうです。
自由市場には神様がいて、自然に、予定調和的に価格が決定されるのです。そして完全雇用になります。
外国では自由市場というと神様との親和性を感じるのに、日本だと自由市場は金儲け主義的で神様とは反すると考えるのが国際的に取り残されていく原因です。リベラルアーツな教育でない弊害です。
●「平等」と「公平」について
最後に「平等」と「公平」ですが、これは辞書で引いても分かる話なので深くは記載しません。
お金で考えると分かりやすいです。同じ内容の仕事をやらせて、頑張った人にも怠けた人にも同等の給与を与えるのが「平等」。頑張った人には多く給与を与えて、怠けた人は給与を下げるのが「公平」です。共産主義と資本主義の違いかもしれません。
これで、大雑把に全部説明しましたが、特に「中観」と「平衡」、「平均」と「客観」、「客観」と「中立」、「平等」と「公平」は、似ているようで全然意味が違うので、間違えるとヤバいと思います。
特に日本人として危惧するのが「中観」と「平衡」の違いです。
仏教と欧米で、全然違います。長文失礼致しました。
参考引用文献
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分裂するオカルト批判 -科学崇拝の危うさ・未来予測は永久不滅-

大槻義彦氏や池内了氏の著書を読んでいて、あまりに偏った文章に本当に嫌気がさしていたところ(大槻氏に同意できるのはアポロの月面着陸はなかったろう論くらいです)、科学者としては同じ仲間である菊池聡氏の著書をいくらか読んでいたら、(やっと)多々まともな意見の内容になっていたので、小難しい文章ですが、そのまま転載しておきます。
面白いことに、科学者同士の中でも大槻教授グループとは距離を置こうとする動きがあるようです。
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1冊目
「超常現象の心理学」 菊池 聡
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私は大槻義彦教授を賞賛してやまないが、最近ヤバいと思う。
それは思考の態度という点でオカルト信者とかなり似通った面が見えてきたからである。
マスコミが求めているのは手っ取り早い結論のみだとはいえ、オカルト信者が貧弱な根拠で超常原理へ直行するのと同じような態度で全否定へ直行しすぎてはいまいか。
大槻教授は物理学の基本原理に反する超能力などと存在しないと断言する。
これは結論としてはその通りかもしれない。
しかし、そもそもの超常現象の存在や性質などは確実に捉えているものではない。
一つ一つの超常現象と呼ばれるものそれ自体が物理学の基本法則に反するかどうかはわからない。
そして大槻教授が代わりに示す超常現象の「科学的解釈」の中には不十分な証拠で強引に結論に持って行ってしまう過程が見られることである。
これでは論法の点でオカルト側と同じになってしまう。
もっとじっくりと超常現象の中身を検討すべきではないだろうか。
大槻教授はいきなり未知の現象自体を全否定してしまう。
論理的に言えば
「主張の根拠が不十分なため、その(特定の)実在説は根拠を失う」
のであって結論自体はほとんど同じとはいえ、そこから「超常現象は絶対に存在しない」と決定することは論理的に不可能である。
最近、教授はテレビでオカルト信者とさかんに激論バトルを繰り広げているが、話のレベルがどんどん落ちてきて、まるで漫才のようになることもしばしばある。
ジャパン・スケプティクス(JS)という学会をご存じだろうか。
スケプティクスとは懐疑的に考える人という意味で、超能力やUFO、心霊などのオカルト現象を科学的かつ批判的に研究する学会である。
どんな出来事でもきちんと検証もしないうちに「そんなバカなことはありえない」と頭ごなしに否定してしまうとすればそれこそが思考停止であり、非科学的な態度だと言うことである。
科学的に考えるために必要なのはオカルト的な主張を先入観で否定することではなく一つ一つを実証的に批判検討していこうという精神にほかならない。
否定すべきものは否定し、わからないものは引き続き十分研究した上で判断する。事実を明らかにするために批判的な立場からオカルト超常現象を考えようというのがJSの目的とされる。
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転載終わり
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2冊目
「超常現象をなぜ信じるのか ~思い込みを生む体験のあやうさ~」菊池 聡
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●茨城大学の伊藤哲司助教授は理系と文系で大学内で「超常現象を信じるか?」ということで調査した結果、80%は肯定的で、20%は否定的だった。
そして意外にも、理系の人の方が肯定的な回答をした人の比率が多かった。
この理由として「対象が未知であって、科学的な調査を必要とする場合、その対象を全否定することは絶対に不可能だから」ということだった。
●関西の大学の271人に対しての不思議現象への調査では、「霊や超能力」「占い」が大きく感心される領域であることが分かった。
●中部と関西の2つの国立大学の調査では、「信じますか?」という質問の仕方では否定的な意見が多かったのに対し、「人の行動を予測する上で役に立つと思いますか?」という質問の仕方だと肯定的な意見が多くなった。
これによって聞き方次第で肯定・否定が変わることが明らかになった。
信じる心は無知や教育が欠如しているからではない。
また、信じるのは科学の知識が欠けいているからではない。
そして科学と対立するものでもない。
証明されていないものの可能性の否定を論理的にするのは不可能である。
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転載終わり
「証明された科学が正義で、それ以外は悪なので抹消すべきだ」といわんばかりの善悪判断まで混同してしまった大槻義彦氏や池内了氏の著書に比べて菊池聡氏の方がまだ救いがありました。
「過去に証明された科学」で万能だと完成し、それを聖書のように信仰して「未来の未知なる科学」を切り捨てる奇妙な方々は、もうたぶん確実に、大学闘争時から教育分野に潜伏している中国共産党の毛沢東・マルクス・レーニン主義の革マル派・日本赤軍などの権威的な科学崇拝の徹底を目指す共産主義思想の過激派左翼の残党なのだ、と個人的に確信してきました。
中国共産党の科学崇拝によって目に見えない世界を信じる人を1億人近く(歴史上最多の)大虐殺した文化大革命・天安門事件
(これによって中国の経済発展が20年以上遅れたと言われる)や、
現在もこの思想でチベットの仏教徒・ウイグルのイスラム教徒を大虐殺している歴史的事実に触れていない(隠したがる)あたりが今のマスコミと同じく典型的な左翼っぽくて怪しすぎます。
中国の毛沢東の科学崇拝で1億人近くも虐殺して死者・重軽傷者を出した天安門事件、
日本のオウム真理教で12人の犠牲となった地下鉄サリン事件、
インパクトがあって印象に残るのは後者のサリン事件ですが、
明らかに歴史的な被害や数から見ても、前者の中国政府と同じ科学崇拝(科学という宗教思想)の持ち主の方がヤバいと思います。
現にオウム自体、元々学生運動時代からの赤軍派・革マル派などに代表される左翼団体(上記の中国共産党を理想郷とする集団)が、解体してきて、すがる(依存する)ものがなくなって、アノミー(無秩序)になってやり始めたのがオウム真理教なのです。
だからオウムの信者の大半は高学歴な理科系であり、科学万能主義者(左翼、理科系は最大の牙城)からできた宗教であったからこそ、サリンも作れる科学力がありました。
神に祈っていたらサリンがプレゼントされたわけではありません。
よく非科学的だ疑似科学だ、と批判されるマイナスイオンや波動などは科学的にも実際に”ある(存在する)”のですが、
”人体に及ぼす影響”となるとその証明は難しいために、(具体的な検証もなしに、しかも批判している相手の著書も論文も読まずに)科学者が「前例にないから」という理由だけで感情論で批判してくるのです。
この傾向は彼らの著書を読んでいて痛いほど伝わってきました。
読んでいて「そりゃ相手側じゃなくて著者自身のことじゃないか、人のふり見て我がフリ直しなさいよ」と言うツッコミが、自分の頭の中でキリがないほど出て来ました。
個人的に尊敬してやまない副島隆彦氏の最近の著書でカルトとオカルトの違いについても説明されていたので、ついでに載せておきます。 オカルトとカルトの違いを知っておくことが必要です。
「副島隆彦の人生道場」 副島隆彦
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カルトとオカルトは違う。
オカルト(ocult)とは、簡潔に言えば黒魔術(black magic)のことだ。
それに対して、
カルト(cult)というのは、狂信的な新興宗教団体のことだ。
案外こういう事を、日本人の知識層は知らない。
こういう語義(デフィニション)の細かい区別をちゃんと付けながら英文を読まなければならない。語(単語:ワート)の一つ一つに思想(ソート)の意味が込められている。そのことが分からないと英文は読めない。
このことが日本の弱点なのだ。私はこつこつ英文を長年読んできた。そのとき、日本の勉強秀才たちだったら、さらさら読み飛ばして、あるいは一通りのきちんとした、「それなりに正しい」日本語文に直して、それで分かった気になっている。そこが問題なのだ。
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転載終わり
オカルト(ocult)とは、黒魔術、つまり魔女と呼ばれたカバラ・グノーシスなどの神秘主義の説く世界観のことです。
対して、カルト(cult)とは、狂信的な新興宗教団体のことで、それが必ずしも神秘主義とは限りません。
例えば「科学教」とも呼ばれるニュートンが先駆のキリスト教プロテスタント・ユニテリアン派などは、科学を信奉する宗教団体、つまり「科学の狂信的な新興宗教団体」です。
だからオカルトとカルトは似ているようで、全く意味が違います。
歴史的な事実を知れば知るほど、この違いの重要性に気付かされます。
科学と言えば唯物論的で、この思想は仏教の思想とほとんど近しいですが、
(仏教は有か無か、ではなく、その中間の”空(くう)”の立場をとる)
そもそも仏教が生き残ってきたのは「おみくじ(近未来予測)」を取り入れる柔軟性があったからです。
時間軸だけで考えれば、人の悩みは「過去への後悔」「未来への不安」の2つだけであって、今悩んでいたとしてもそれは1秒後には過去になっています。
特に「未来への不安」と言うのはいつの時代も、どんな人でも消えることはありません。
なので誰しも「近未来予測」と言うことに興味を持ちます。
この点で、副島氏は、
未来に起こる不利益な困難を事前に知って備えるために占いや呪術を求めるのは人間の本能であって、永久にこれが消えることはない。
「未来の不安」を「商法」として利用しようとユダヤ人がラチオ・リーズン(ratioとreason:拝金と強欲の思想)で考え出したのが「保険制度」であって、
おみくじや呪術で繁栄を願う中国の道教(タオイズム)は偉大であり、
自分も経済・金融という面で「近未来予測」することで多くの人を助けようと思う。
と述べていますが、その通りだと思います。
どの時代も大衆が求めるのは科学ではなく占いや呪術です。
この傾向は未来永久に続くと思います。
疑似科学批判の本が売れない理由は、批判する科学者の著者自身が述べるように日本人の科学的知識の欠如や学歴低下したから、などではなく、単にこのような大衆の(本能的な)ニーズが分かっていないからだと思います。
現代の日本の自然科学は、昔の初期の仏教によく似ています。
自然科学の基礎は、そもそも起源は宗教の「未来予測」の思想にあるのに、この基礎的なことを忘れて唯物論を徹底しているようでは、衰退した仏教と同じ道をたどることになるのは必然です。
やはり、死者と交信する装置を作ったエジソンや、地震兵器や気象操作装置や死後の世界や守護霊の研究をしたニコラ・テスラのように、
いくら怪しくておかしいと言われても、無限の探求心を動機に証明されていない疑似科学に対して科学や物理学などで多面的にアプローチしていく船井幸雄氏のような”姿勢”が一番、本物の科学者として素晴らしいのではないかと個人的に思います。
この点では副島氏も共通です。
一流の科学者は、神、宇宙霊とか魂に関して、
「あるかもしれないし、ないかもしれない。 でも、あるような気がする」と言います。
人に悩みを植え付ける根源である神経症・人格障害者への考察・対処法まとめリンク
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-243.html
神学 vs 近代学問 (理系・文系を分離させることの危うさ)

正確には副島氏の言うように「理科系と言う宗教」と言った方が正しいのかも知れません。
画像の大きさ上、FC2ブログには貼れなかったので、Seesaaブログに書きました。
よろしければ詳細はこちらをご参照下さい↓
神学 vs 近代学問 (理系・文系を分離させることの危うさ)
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142022140.html
理系・文系という分け方は間違っている!(2) ~証明が出来なければ皆殺しである~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142151272.html
理系・文系という分け方は間違っている!(3) ~神の啓示と自然の創造~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142426379.html
理系・文系という分け方は間違っている!(4) ~魔女狩りとファンダメンタリスト~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142849282.html
理系・文系という分け方は間違っている!(5)~自然の創造が合理主義へ~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142932468.html
理系・文系という分け方は間違っている!(6)~~科学教という宗教は実在する~~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142945514.html
個人的にはそこまで気にしていないのですが、最近、世界的にも日本の学力が落ちたことが嘆かれています。
それに対して新書などの評論を読むと
「科学(理系)を学ばないから馬鹿になる」
「道徳教育や心の教育なんて甘えたことをしているから思考停止して馬鹿になる」
と言った記述を多く見かけます。
更に、最近僕がよく読んでいるオカルト批判で有名な大槻義彦氏や池内了氏、菊池聡氏の本になると
「科学の知識に乏しい馬鹿で無能な低学歴の奴らが、知識の偏重を起こして殺人を犯している」
「目に観えない世界を信じる連中はいずれ拝金思想で政治にも手を出し、オウム真理教のように大量殺人を犯すので危ない」
という、仮に妄想であっても飛躍しすぎなトンデモ論を展開しているので、読んでいて不愉快極まりないわけですが、だいたいこれらの疑似科学批判の本は、朝日・岩波新書系列(左翼:マルクス主義)から出ているので「あー・・なるほどね、そういう裏があるからね」と納得して読んでいます。
(しかも一言も中国共産党のマルクス主義(科学崇拝)の思想で起こった天安門事件[目に観えない世界を信じる人を1億人近く大虐殺した歴史的な事件]や、その流れで、いまだに現在進行形でチベットやウィグルや台湾で宗教者などを無差別に1億人近く大虐殺していることについては触れてもいません)
「学問で、なぜ日本がヨーロッパ諸国に劣っていくのか?」
という疑問に対して、副島隆彦氏が「宗教と科学をなぜ人類は大きく分けるようになったのか論」や「理科系という宗教団体の信者たち」や「ミネルヴァのフクロウは夜飛び立つ論」を展開していましたが、やっとその意味が解読できたので解説しておきます。
日本において学問は「文系 vs 理系」のスタイルが定着しているのですが、この分離がそもそもの欠点なのです。
なぜなら、ヨーロッパでは「神学 vs 近代学問」のスタイルだからです。
神学とは「神様が存在することを証明する」ことを目的とした学問です。
日本人は、キリスト教やユダヤ教やイスラム教などの唯一神ではなく、八百万の神々なので神学という言葉も学問も馴染みがないようにも思います。
ちなみに哲学や人文学や文学は神学の下に属します。
近代学問とは、神学とは反対に「近代科学」のことです。
この派閥に属するヨーロッパの知識人は15歳くらいになると「自分は神様を信じない」という表明をして、近代学問を学んでいくそうです。
これだけ聞くと「なーんだ、神学=文系で、近代学問=理系じゃないか」と思うかも知れませんが、この安易な勘違いが大きな落とし穴なのです。
実は、日本では理系であるはずの「数学」は「神学」に属しています。
その中で「数学」は道具としてだけ使われます。
元々の科学は、哲学の流れから派生したものなので、数学は神学に属するのです。
「工学」「機械工学」も「科学」ではなく「応用科学」と言われ、道具として利用されます。
発見が「科学」であって、発明は「実用新案」に過ぎない、ただの道具なのです。
日本では同じ理系に思われている物理学におけるアインシュタインの一般相対性理論と、量子力学のボーアの量子論は、今も対立し続けています。
このように「学問」の時点で「科学」なのは「当たり前」であって、日本で言う理系・文系などは、ヨーロッパの神学・近代学問においては両方とも初級学問(=下等学問)に過ぎないのです。
哲学も数学も工学も文学も人文学も文学も、神学・近代学問の両方で初級学問なのです。
(日本で言うと小学校で文理が区別されてなくても、仮に文系でも”さんすう”を習うし、仮に理系でも”こくご”を両方習うというのと同じ感覚です)
そしてこの総称を「学問(科学)」と言うのです。
繰り返しますが「学問」のことを「科学(サイエンス)」というのです。
その「科学(サイセンス)」とは「理科系」と訳されるのではありません。
なので、メディアや新書の評論家が言うように、決して理科系が弱いから劣ってきているのではないです。
そもそも土台から違うのです。
理系・文系なんて考え方はヨーロッパでは前近代(500年以上前)に終わっているのです。
「理科系=科学」「文科系=いい加減な、自分勝手な、自分勝手の考えの寄せ集め」だと考えて、「数学」ができるかできないで「理科系」と「文科系」に分けたりすれば、日本の価値観と世界的な価値観との間に大きな欠陥が生まれて日本が脱落していく原因になるわけです。
科学を理系だと区別した(訳した)裏には、目には観えない世界を否定したがる当時の左翼知識人の臭さがプンプンします。
(現在も日本の大学の多くは裏が共産党です、俗に言う”理系”に行けば行くほどそのマルクス色が強くなります)
「過去に証明された科学」で万能だと完成し、それを聖書のように信仰して、「未来の未知なる科学」を切り捨てる、変な連中には注意したいです。
画像の大きさ上、FC2ブログには貼れなかったので、Seesaaブログに書きました。
よろしければ詳細はこちらをご参照下さい↓
神学 vs 近代学問 (理系・文系を分離させることの危うさ)
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142022140.html
理系・文系という分け方は間違っている!(2) ~証明が出来なければ皆殺しである~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142151272.html
理系・文系という分け方は間違っている!(3) ~神の啓示と自然の創造~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142426379.html
理系・文系という分け方は間違っている!(4) ~魔女狩りとファンダメンタリスト~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142849282.html
理系・文系という分け方は間違っている!(5)~自然の創造が合理主義へ~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142932468.html
理系・文系という分け方は間違っている!(6)~~科学教という宗教は実在する~~
http://rextuseferu.seesaa.net/article/142945514.html
マイケルジャクソンがエホバからイスラム教になったワケ4

米CNN生放送マイケル・ジャクソンの亡霊について
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-31.html
忌野清志郎さんの葬儀に出た火の玉について
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-32.html
マイケルジャクソンがエホバからイスラム教に改宗したワケ
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-33.html
マイケルジャクソンがエホバからイスラム教になったワケ2
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-35.html
マイケルジャクソンがエホバからイスラム教になったワケ3
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-36.html
の続きです。
このようにエホバの証人のようなキリスト教と比べて、イスラム教では
1:最後の審判の時に、今の肉体のまま天国(自由で酒池肉林な世界)へ行ける
2:アッラーに誓って反省すれば罪が赦される(=1)
という所に大きな違いがあります。
アッラーは、何でも反省すれば赦してくれるので他のどの神様よりも寛大です。
ということはマイケル・ジャクソンには「今の肉体のまま、赦されたい」という願望があったのではないでしょうか。
マイケル・ジャクソンは幼い頃から裕福で、お金や労働の価値というものが分からなかっただろうと思います。
おそらく幼児期の親の万能感が抜けきれず、だからこそネバーランドという空想の世界を現実世界に作ろうとしたのだと思います。
人は通常、大人になってくるにしたがって、自らの等身大の現実を知り、誇大自己像が破壊されて、それを補うために妄想(夢・理想)でカバーしようとします。
芸能人にはかなり多いですが、少なくともマイケル・ジャクソンはかなり特異な自己愛性人格障害者だっただろうとは察しがつきます。
精神分析者のハインツ・コフートは自己愛人格の形成に最も重要なのは幼児期の誇大自己であるといいます。
コフートは幼児期を過ぎても温存された誇大自己が修復不能なくらいに傷付けられ、ついには破壊された時はその「妄想的復元」が起こるという可能性を述べています。
彼らの特権意識とは、誇大自己の結果をもたらられる「私はノーベル賞学者になる人物だ」といった楽観的なものではなく、彼らは最後の砦である誇大自己を守るために「わたしは(どんな意味においてでも良いが)特別だ」という意識を常に持ち続けていかなければならないのです。
「平凡な人がうらやましい。でもそうなれない。」という彼らの得意なフレーズはそのことを意味しています。
「私だって特権意識を捨てたい。でもそうしたら誇大自己が破壊されてしまう。それに代わる自己イメージを私は持ち合わせていない」と彼らは言いたいのかも知れません。
それは「泣きながら「私は特別だ」と永遠に言い続けなければならない」という神話的な物語も連想されます。
もしマイケル・ジャクソンの亡霊が本当だとすれば、ジャクソン自身の、「まだ肉体を持ったまま赦されて、最後の審判を受けて天国へ行きたい」という意思が残留しているような気がします。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体
マイケルジャクソンがエホバからイスラム教になったワケ3

米CNN生放送マイケル・ジャクソンの亡霊について
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-31.html
忌野清志郎さんの葬儀に出た火の玉について
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-32.html
マイケルジャクソンがエホバからイスラム教に改宗したワケ
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-33.html
マイケルジャクソンがエホバからイスラム教になったワケ2
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-35.html
の死生観の続きです。
キリスト教などにおいて、最後の審判(Last Judgement・ラスト・ジャッジメント)というものがありこれは、世界の終わりに人々が裁かれることです。
キリスト教では、世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分けるといわれます。
「新約聖書」によるとキリスト教の最後の審判とは、今いる人間はそのままで、死んだ人間は最後の審判の直前に、神は生きていたときのまま肉体に返すとされています。
人間は死後、肉体は腐り果てて、魂はその辺りをぶらぶらと彷徨っていますが、最後の審判の時に生前と同じ肉体を与えて、地上に肉体を持った当人が現れて最後の審判に臨むのです。
死後の魂が彷徨う状態は、審判前の待合室にいるような状態と考えます。
そして緑園や地獄ではなく、”この現世”において魂が「神の国(キング・オブ・ゴッド=天国)」に至るのです。
死後の世界や、来世、あの世ではないのです。
”この世”でそれは現実として起こるのです。 やはり、ここでもキリスト教は「あの世」や「地獄・天国」を説いていません。
あるとしたらダンテの「神曲」に出てくる地獄・煉獄・天国というイマジネーションのフィクションの文学作品のみです。
ちなみにイスラム教の最後の審判は、「今すぐ来る」と言っているキリスト教に対して、いつ来るかの時期については一切触れていません。
キリスト教もイスラム教も、このように仮に死んだことにして神の裁判を待つという最後の審判の思想がありますが、
キリスト教では、最後の審判の日に生身のイエス・キリストが元の姿でこの世に再臨し、この世で神の国が到来するので、その神の国に入れる者と入れない者を識別します。
ギルティ(有罪)を宣告された者は、神の国から追放され、魂の”永遠の死”を、
ノット・ギルティ(無罪)の者には、神の国で、魂の”永遠の生命”を与えられます。
しかし、キリスト教は、この「神の国」という所が、どういう国なのか一切言っていません。
この”言わない”と言うことが、人間が勝手に妄想を膨らませて理想化するので、宗教的に絶大な効果を持っています。
イスラム教では、魂が緑園や地獄に行くのではなく”肉体がそのまま行く”のです。
しかも、キリスト教のように”永遠の生命””永遠の死”など、曖昧ではなく、はっきりと「緑園と地獄がこういう世界だ」と説明しているところに大きな違いがあります。
更に聖戦(ジハード)で戦死して死んだ者は、最後の審判の時に、すでに生きて天国へ入ることが出来ます。戦死者は死んだことにならないのです。生きているとされます。
一方で、コーランは「騒擾(そうじょう)がすっかりなくあんるまで戦い抜け、しかし向こうが止めたら汝らも害意を捨てねばならぬぞ」と、イスラム側から好戦的態度を取ることに抑圧をかけています。
また、イスラム教にも”慈悲”という言葉が頻出しますが、仏教とは意味が違います。
仏教においては「仏は慈悲深い」と言われますが、罪を犯した人を仏の権限で赦すことはできません。
しかし、イスラム教の慈悲は、アッラーの権限で悪事を働いても赦すことができてしまうのです。つまり”悪事をしても後から反省すれば赦されるのです。”
奇蹟に関しても、キリスト教のように頻出することはなく、イスラム教においては奇蹟はコーランこそが最大の奇蹟であり、これ以後、奇蹟を起こす必要はないと考えられています。
それ以前に起こった奇蹟であるイエスやモーセの旧約聖書・新約聖書の奇蹟はアッラーが起こした奇蹟であると解釈されています。
続きます。
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