幼児的願望の行動と動機

神経症関連→http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-11.html
幸福感→http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-12.html
ここまで整理したところで、
引き続き、早稲田大学理工学部教授の加藤諦三氏のHPにある講演から、
今度は「幼児的願望」について引用しながら記述したいと思います。
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昨今、教育熱心な親の家庭で子供が無気力になっている。
特に肉親を相次いで殺したり、社会を仰天させるほどの大きな少年犯罪は親が先生の家庭が多い。
報道の通り、大きな犯罪を犯すのは優しくて真面目な生徒が多い。
あなたが目の前に言って頼みごとをしても素直に引き受けてくれるような子である。
なので「もっと勉強しなさい、もっと親の手伝いをしなさい、もっと周囲を思いやりなさい」
このようなことはもう全部やっている。
現代は努力が報われない時代である。
このような犯罪にしてみても
普段の行動は真面目で間違ってないので問題はないが動機に問題がある。
良い子と呼ばれる子は他人に親切にしているのである。
(実際に犯罪を起こした子は近所に挨拶もするし、親の手伝いもするし、勉学に励み、学校に早く行って窓を開けたりもするほど親切な傾向がある)
そもそも親切とはなのか?
求められたことをして満たして悪いと思う人はいないと思う。
あなただって自分が頼ったり頼んだりして相手がやってくれたら嬉しいはずである。
「~されるのが怖いから親切にする」
素直と従順は違うように、やっている行動は同じに見えても従順で動く動機は恐怖である。
「親切にすると感謝されるから親切にする」
こちらの動機は孤独感である。
寂しがり屋の人ほど親切で自分をいい人だと見せたい傾向がある
熱心な先生でも
本当に好きで熱心なのか?
生徒によい格好をしたいから熱心なのか?
このように行動は良く見えても動機によって全然違うのである。
アメリカで「condependents(共依存)」という本がベストセラーになった。
依存心の幼児期に両親二人がアル中だった人の調査である。
つまり幼児的願望が満たされずに育った子である。
幼児的願望とは
何かの出来事に対して「わーすごい」とか
転んで「痛かったねぇ」と
感心を持たれたい願望のことである。
これは誰にもあることで、満たされれば幼児的願望は消えて成長するが、逆に満たされるまで消えないのである。
フロイトは「幼児的願望を抑えることはできるが消えることはない」と言った。
3歳4歳の心が
15、20、50歳になっても満たされない。
「幼児的願望は年齢に関係なく満たされない限り消えない」
必ずしも幼児期に満たされるものではない
ダンカンレイという人が「ピータンパンシンドローム」という本を書いているが、
これは大人になってもいつまでも幼児的願望があるということである。
欲求は常にある。
満たされてない人はやたらと親切である場合もある。
フロムは研究テーマで
ナチスは軍事力ではなく選挙で政権を握ったわけだが
「ナチスはなぜあんなにひどいことをしているのに選挙で投票されたのか?」
これを研究して「エスケイプフリムプリズム」という本を書いた。
その中で「神経症的非利己主義(ノイローティクアンセルフィッシュネス)」という言葉が出てくる。
やることなすこと立派だがノイローゼという意味である。
立派な人だと言われたいがために行うのが神経症的非利己主義。
自己執着が取れて人のことを思って行うのが本当の非利己主義。
立派な人だと言われたい動機で動く。
賞賛されたい、認められたい。
本当の非利己主義はこの自己執着がない。
人に親切にする動機について考えてみると
愛情から親切にするのか?
恐怖から親切にするのか?
孤独で寂しいから親切にするのか?
規範意識から親切にするのか?
(規範意識とは人間とは~すべきであると言う意識)
規範意識は愛情とは違う。
同じ親切でも動機によって全然違う。
「愛情」の動機は「思いやり」である。
つまり他者の顔色、見返りや打算が動機にないことが本当の親切である。
時間を守る人。
相手に迷惑だと思って守る人。
規範意識で守る人。
時間にルーズな人と思われたくないから守る人。
人の行動とは同じ行動でも動機によって全然違う。
真面目にする動機も同じである。
「メランコリー」という本を書いたテーンバッハは「二重の否定」と言っている。
「真面目でないことは良くないこと、だから真面目にしている」という意味である。
目的があってそのために真面目な人もいれば、
二重否定で真面目な人もいれば、
良く見せたいから真面目な人もいる。
真面目な生徒が不登校になることが多い。
この不登校の場合
ある目的があってから真面目だったわけではない。
行動動機は人の顔色で決めている。
親の顔を見ている。
すると自我の成長がない。
親から逃げられない。
つまり「自分が~したい」というのがない。
いずれ自分がどうして良いか分からなくなる。
最初はよくてもある時点まで来るといずれ期待に応えられなくなってくる。
期待はだんだん上がってくるのでそこで挫折する。
やっていることは立派であるが、動機は立派ではない。
周囲の多くの人は動機を見ない。
少年犯罪した子は朝窓を開けて空気の入れ換えをしたり近所に挨拶したり母親の手伝いをしたりしていた。
この子は家庭に産まれたのではなく会社に産まれたような家庭である。
家庭なのに会社のように社長や部長の顔を窺(うかが)い、業績を気にする。
親は直接見捨てるとは言わないが、要望を満たせなかったら見捨てるという。
家族旅行が好きなおやじは幼稚な人が多い。
もちろん本当に好きな人もいるが・・
自分が幼児期に愛情欲求満たされなかったので子供で満たそうとする。
端から見たら立派な親かもしれない。
しかし必ずしも、決して子供が行きたいのではない。
これはボールビーが見事に表現している。
「親子の役割逆転」と言われるものである。
子供が親の面倒をみているという意味である。
親は旅行に行きたい、子供は生きたくない。
子供は親が行くと言ってるのだから行かなければならないと脅迫されているのである。
しかし、親は自分は立派で最高の親だと思っている。
両親の欲求を満たすために子供が動いているのである。
まさに役割逆転である。
最高の父親と、最低の父親の行動は同じである。
子供のために帰る人は立派だが(最高の父親)
自分が立派に見せたい褒めてもらいたいから早く帰る父(最低の父親)
教育学者ニールはこれを
「最低の父親は子供に感謝を欲求する父親である」と言っている。
座ってるだけでも水を飲めるだけでも感謝しろと欲求し、恩着せがましい。
「自分は会社で苦労しておまえのために働きたくない働いてる」という。
子供は不幸の原因であるから、子供なんかいらないと言っているのと同じ。
やってる行動だけみれば立派だが動機が問題である。
最低の母親は「ママのこと好き?」と聞く母親である。
もちろん子供は嫌いとは言えないわけである。
幸せな子は、隣の家の友達の母親の手料理を食べて美味しいと自分の母親に言える子である。
最低の母親ならばこの言葉で怒るからである。
従順な子はお母さんの気に入ることようなしか言えない。
言えると言うことは素直に安心感があるということ。
ボールビーの世界中でした調査によると「見捨てるという脅しは効果がある」と言っている。
この台詞を言う親は世界中にいる。
そのときは効果があるが、しかし長期的には効かない。
体罰も同じである。
体罰も短期的には効果があるが長期的にはない。
いずれ社会に対する敵意を露(あら)わにしていく。
家庭内暴力もこれがため。
家庭内暴力のある子は反抗期がないのである。怖くて反抗期がないのである。
子供が親に「わーお父さんお母さんすごいなぁ」と本心思っていなくても言わなくてはならない。
客観的にみたら立派に見え、社会的には適応していることになるが、動機が問題になってくる。
行動と動機を間違えれば大変なことになる。
真面目という言葉も同じである。
オウム事件を起こした人は高学歴でみんな真面目だったと評価されていた。
反抗期もなかった。
家は子供に手が掛からないという家は危ないのである。
オウム事件の麻原教祖は信者に優しかったという話題をテーマにした番組で
キャスターが「永遠の謎」だと結論づけた。
犯罪者が親切にするなんて考えられないと考えていたからである。
テレビに出ていた他の知識人は、みんな「その通りだ」も頷いた。
しかし、このくらいのことは何も不思議でもなく、むしろ中学生でも分かることである。
この優しさは支配のための親切であり、親切やってるから言うことを聞けと言うのはヤクザの掟である。
「これだけ恩をやったんだから俺の言うことを聞けよ」と言う脅しである。
ここまで今の日本は行動しかみないのである。
動機は無視している。
コミュニケーションとは相手の動機を理解すると言うことである。
親切=立派という価値観が根強く、動機を考えないから混乱するのである。
だから出会い系サイトにもひっかかるのである。
これについてはフロム・ライヒマンが
「自己犠牲的献身は強度の依存性の表れで、相手に尽くせば尽くすほど相手を縛ることになる」と言っている。
自分を犠牲にした親切は依存心であり、相手に尽くせば尽くすほど、相手が身動きまでできなくなるのである。恩を受けているから動けないのである。
動機が理解できないと相手も理解できない、人間関係もうまくいかない。
挨拶もコミュニケーションも動機を理解しないと同じである。
コミュニケーションの挨拶もあるし、相手に良く思われたい挨拶もある。
「挨拶をすることが重要だ」とよく言うが、動機を無視していては意味がない。
いつも事件を起こすのは相手に良く思われたい挨拶をする人である。
もしコミュニケーション的な挨拶をする人ならば、
挨拶が「よう」「やあ」など変わってくるはずだが、相手に良く思われたい動機でやっている人は100回やっても「おはようございます」ばかりで親密な変化はない。
子育てにおいて大切なのは親の意識ではなくて親の無意識の方である。
オーストリアの精神科医はベランウルフは
「人は相手の無意識に反応する」と言っている。
自分の心の底に敵意や憎しみがあればそれに反応しているという意味である。
やってみれば分かるが、例えば学校などの集団で
目をつぶってもらい、幼稚園から大学までの先生で今会いたい先生の名前を挙げてもらう。
次にそれがどういう先生だったか?と聞くと
難関大学でさえ、必ずしも教育熱心だった先生ではないのである。
思い浮かぶのは「ふとしたことで心が触れあった先生」である。
中には熱血先生を思い浮かべる子もいるが、
それは本当に人を思って熱血だった先生で、自分の評判を上げるために熱血だった人ではない。
結婚式で恩師といって呼ばれる先生ではない。
生徒は先生の無意識に反応しているのである。
人は相手の無意識をみている。
これは子育てでも同じである。
テロリストで世界で最も危険だと言われているビンラディンは幼児期から真面目で礼儀正しい人物であると言われている。
真面目な動機が復讐心である。
この「行動と動機の」視点を忘れてはいけない。
「なぜ?なんで?」と新聞が書く傾向は20年前から書いているが
そろそろ分かれよ、と言いたい。
動機をみないから混乱するのである。
目的があってそのために真面目な人もいれば、
二重否定で真面目な人もいれば、
良く見せたいから真面目な人もいる。
このことを忘れてはいけない。
動機を見ないでいるとテロリストを生むと言うことである。
ex)
飲兵衛だけの人は自分の身近に金の出所がある。飲んでばかりで
親族は他人のフリをするほどであった。
酔っぱらって電車にひかれて足がなくなるという事件が起こる。
その飲兵衛の人は手だけが使えたので絵画を始めた。
それが社会に評価されだすと親族は「この人は自分の親族だ」と言い出した。
しかし、その飲兵衛の人は未だに「認めてー認めてー」と叫んでいる。
以前は、お酒を飲んで自分の大変さを認めてほしかった。
成功してからは自分の立派さを認めさせようとした。
行動は社会的に立派になったが、動機は同じ「認めてー」である。
行動は立派でも動機は別である。
高校生のたばこは社会に対する反発である。
ホームレスのたばこが安らぐから吸っているのである。
動機が違うのである。
高校生はいくら説教しても動機は反発なので効果がない。
動機を見ないで指導してもダメである。
動機を見ないで子育てに失敗したケースが多すぎる。
スチューデント・アパシーと言う言葉がある。
過去に成功した経験があり、ある時、急に無気力になった学生の心理を指す言葉である。
ex)
子が「学校でいじめられた」という→教育熱心な母は教育委員会や学校に文句を言いにいく。
だが、いじめの事実はなかった。
子はいじめられたと思ったがそれを耐えて強いだろうと認められたかった。自慢話をしたかった。
母はその言葉を動機を考えずに「危険だ」と真に受けて走り回った。
母親は熱心だが、周囲から見たらトンチンカンの行動をしている。
ex)
子どもが血を出して泣いているとき親の3パターンがある。
1:「大丈夫よ、痛いの痛いの飛んでいけ」など子供の不安感を取り除き、そのあとに治療する
2:「黙ってみている」
3:「あはは意気地なし」と笑ってみている
これは一番最悪である。
どうして泣いているか聞かないで、医者と同じ反応である。
薬を付ければ良いと合理主義である。
こういう子供は感情を失っていく。
このように反応だけで子供からしたらだいぶ違う。
やはり行動の動機を知ることが大切である。
動機を見てくれないから努力が報われないのである。
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本当にここまで的確な加藤諦三氏の分析力、洞察力には感服致します。
メディアで大きな犯罪起こした人を「真面目で優しい良い子」とは定型文のように聞きますが、
決して美化しているわけではなく、本当に優しくて真面目な生徒なのです。
私自身も今考えれば、高校時代はスチューデント・アパシーであったのですが、やはり行動だけの従順でした。
動機が無視されていたからということもありますが、同時に自分でも神経症的競争の行動をしていたため、オーバーヒートを起こし、ガソリンの入っていない車のようになったのだと思います。
例えば、1日8時間勉強して、テストで80点採っても、まだまだ周囲に負けている。
では次は10時間、12時間・・となり、最終的に睡眠することさえ甘えだと鞭を打ち、最終的には食事も食べず、睡眠さえしませんでした。
その結果、向上どころか脱落の一途を辿り、テストは赤点の連続で、深夜から早朝まで机に教科書だけ広げて寝ずにぼーっとしていた日が何日も続きました。
半年も経てば、ベッドから起き上がるのにも無気力になり、破滅的で絶望的な想像ばかりを巡らして幻聴や幻覚が起こり、床に頭を打ち付けながら時にチック的に発狂したりしていました。
やはり、神経症者が辿る末路はDSMにもあるように統合失調症やうつ病などの精神病なのだと思います。
自分と外部の神経症的欲求や幼児的願望に伴う、行動と動機それぞれを
自問自答して考慮してみることが大切だと思います。
人に悩みを植え付ける根源である神経症・人格障害者への考察・対処法まとめリンク
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