本来の「中道」とはなにか ~中観や平衡との違い~

Twitterで「お釈迦様は中道だから苦行はしていない!」「現実的に考えて苦行なんてしてたらお釈迦様はもっと早くに死んでるだろ!」と言う、根拠のない詭弁なコメントを頂き、
「あぁ…日本人のお釈迦様への認識もここまで新興宗教に侵食されたのか…」と落胆しました。
同時に考えるきっかけを与えてくれたので感謝しつつ、簡易的ではありますが記載します。
釈迦は、確かに「中道」を悟りました。しかし、それは修行で苦行した後の話です。
最初から「中道」を説いていたわけではありません。
これは釈迦が生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解するまでのスジャータの物語や、上座部仏教について歴史を正しく理解していれば、誰でも知っていることです。
現在でも、釈迦に近い教えを受け継ぐ原始仏教のダライラマのチベット仏教のゲルク派やカギュ派、スリランカ仏教でも見れば分かると思います。
そして、お釈迦様の「中道」は本来、日本人の考えるような「極端に偏らない。楽観主義と厳格主義の間を生きよう。」という意味ではありません。
「中観(ちゅうがん)」を理解しないと、本来の「中道」の意味は分かりません。
そして、この「中道」と似ているからと言って混同させると、極めて危ない言葉もあります。
特に、「中道」「中観」「中庸」「平衡」。他に「中間」「中立」「客観」「均衡」「平均」、更に「平等」「公平」です。
きっと日本人の大半はこれらの言葉の区別が付いてないと思います。全部同じ意味に思ってることでしょう。
これも日本が世界普遍的価値のリベラル・アーツの学問体系でない弊害だと感じます。
これらについて一つずつ、解説します。
●「中道」と「中観」について
まず「中道」は仏教の教えです。意味は感覚的にご存知な人が多いと思いますが、「中観」とは出たルートが違います。
「中道」は相応部の初転法輪(パーリ語)で八正道の最初に説かれます。また倶舎論(サンスクリット語)や雑阿含経(漢語訳)でも出てきます。
仏教の学問的な事実(fact)を探求すると、当然「釈迦の教えに近いこと」が重要視されます。
釈迦は対機説法(たいきせっぽう)と言って言葉からの悟りを重んじました。よって原始的なお経はあまり残されていません。
そこで、どの言葉を用いたかと言うことですが、釈迦は地元の「マガタ語(釈迦語)」を使っていました。
しかし、原始仏教典は口語であるパーリ語が主です。
更に釈迦の死後の数年後には、すでにサンスクリット語と呼ばれる高貴な言葉の経典ばかりになりました。
つまり古さで言うと「(古)←マガタ語<パーリ語<サンスクリット語<漢語→(新)」なのです。
当然、釈迦はサンスクリット語なんて、貴族しか使えなかった文語の言葉は使っていません。
口語であるパーリ語でもギリギリ怪しいです。
つまり、新しい経典ほど、釈迦の本来の教えから遠ざかります。
日本に入ってきたような仏教は、中国仏教の「漢語」を、更に漢文で日本語に訳しているので完全に遠ざかってます。
「中道」はパーリ語ですが、日本に入ったのは本来のパーリ語的な意味でなく、中国の道教の影響を受けた漢語訳の経典モノ(偽経と呼ばれてます)で「極端に偏らない」という意味では、実は本質的に説明不足なのです。
まして「楽観主義と厳格主義の間を生きよう」という意味でもないです。
そこで「中観」の意味が重要になります。
これは釈迦の考えと行動を正確に受け継いた龍樹と呼ばれる人物の中論によって説明されたモノで、「一心三観」での説明が分かりやすいです。
一切の存在には実体がないと観想する「空観」と、仮に現象していると観想する「仮観」、その間の「中観」です。
極端に言うと、空観だけだと全てが空と悟って瞑想に自己陶酔するだけで怠惰になる、仮観だけだと全てが妄想なのでどんな悪行も許されてしまう。そこで間で「中観」を取りました。
全てが仮の仮観でも、空の「縁起」の思想が入れば「全てに意味がある」と解釈されるので、事象の関係性や利他的な心を生み、悟れるのです。
この「中観」が釈迦の本来の教えの「中道」の意味に近かったハズなのですが、漢語版で偽経の中国道教と日本仏教のフィルターを通したせいで「極端に偏らない。間を生きよう。」と、かなりアバウトに解釈されてしまいました。空観も仮観も、解釈されなくなりました。これにより「中道」が権力者に都合の良い解釈になりました。
「中観」と言った場合、「悟りのための観察法」を指すハズが、中国道教や日本仏教の「中道」の感覚だと解釈が違います。
お金持ちと貧乏人で例えれば、年収1億の人の中道が5000万なら、年収200万の人の中道は100万です。つまり権力者(当時の僧侶)や金持ちの人が、下の者に「中道」と説教して抑えつけることができるのです。
これで「中道」と「中観」の違いについては、歴史的な解釈の古さから「中観」の教えの方が本来の「中道」の教えということがご理解頂けたかと思います。
●「中庸」と「平衡」について
次に「中庸」ですが、これは儒教の教えなので、釈迦の原始仏教とは相当遠ざかっています。
どちらかというとアリストテレスの説いた「平衡」に近いですが、内容は全く違います。
「平衡(equilibrium)」は、アリストテレス論理学で、有か無か、正か誤か、などの二分法的な結論のもので、突き詰めると、お金で人間活動のすべてに釣り合い=均衡を与えるという冷たい思想です。
この論理がその後のユダヤ教の中にratio[ラチオ:理性(=拝金と強欲の思想)]を植え付けました。
なぜ二分法を突き詰めると金儲けの思想になるかというと、アリストテレスの「分配的正義」で説明できます。
例えば、加害者と被害者がいて、双方を明確に「善」と「悪」に切ることは出来ません。
なぜなら双方に殺す理由、殺される理由や、環境的な経緯や事故的な偶然性もあったわけだからです。
それで天秤にかけて「どちらの正義が重いか、軽いか」を測るわけです。これが「法学」の始まりです。これは今も各国の裁判所に置かれる「正義の女神ユースティティア」が象徴的です。片手に天秤、片手に剣で裁きます。重要なのは「目隠し」で、これは「自分はどちらが正義かどうかは分からない」という意味です。
「正義の女神ユースティティア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%A5%9E
他に「目隠し」に関しては、実は女であり、裏に男の権力者がいる、つまり「法は権力者が決めるデタラメなモノ」という解釈もあります。おそらく両方の意味があるでしょう。この「秤」という「平衡」の思想が、「利益配分」という儲け主義に繋がっていったのです。
余談ですが、日本ではこの正義の女神の代わりに裁判所に「観世音菩薩」を置いてるので、全く本来の法学を理解していない証拠です。
また正義論では、このアリストテレスのユダヤ教的な「弱肉強食の正義(強い者が強い正義)」に対して、イエスが対抗したキリスト教的な「弱者救済の正義(弱い者を守る正義)」があります。
これで「中庸」と「平衡」の違いについては、儒教の教えとアリストテレスの教えで、根本的に論理も違うことが分かりました。
「中間」「中立」は説明するまでもないとして、「客観」は主体から「観るもの」に対しての「観られるもの」で、これがどこまで事実(fact)かは、唯物論や独我論や唯識論とか認識論の差異です。
●「平均」と「均衡」について
「平均」は産業革命後に金持ちから貧乏までの階層社会を抽出するために発展したもので、統計学では「正規分布」と言います。ベルマークをイメージすると分かりやすいです。しかし最大の弱点があり「異常値(外れ値)に対応できない」のです。
正規分布(平均)のベルマークは、山の真ん中ほど人が集中していて、山の裾の尾ほど人が少なくなっていく「前提」になっていますが、重要なのは、山から外れるに連れて「急激に人が少なくなっていくこと」です。
例えば、学校でテストを作って先生が「平均点は○○」と言いますが、あれは大ウソです。
「平均点に大多数が集中していることなどありえない」のです。
先生の指導書には、生徒が全体的に平均点に集まってくれることを理想とするでしょうが、確実に点数の極端に高い人、極端に低い人が出ます。
平均という正規分布の山は、確かに山の形になるでしょうが、その山の高さや低さ、裾の尾の広さや奥行きは考慮されてません。つまり数学のテストで、多くが30点以下で、一部が100点採って「平均点は50点」と言われても、50点前後に人が集中しているワケではないのです。
例えば、サブプライム・ローンも、ローンの返済能力を階級別にしてローンを組ませて証券化しました。確実に返済できる人は90点、返せなさそうな人は50点、そこで正規分布(平均)を見て「まぁ50点の人も90点の人に混ぜて見れば返済できるよね」と甘く考えて、平均に騙されて破綻しました。
「均衡」は、ワルサスの一般均衡で語られるような経済学での需要量と供給量が釣り合う意味でよく使われます。アダム・スミスの「神の見えざる手」もそうです。
自由市場には神様がいて、自然に、予定調和的に価格が決定されるのです。そして完全雇用になります。
外国では自由市場というと神様との親和性を感じるのに、日本だと自由市場は金儲け主義的で神様とは反すると考えるのが国際的に取り残されていく原因です。リベラルアーツな教育でない弊害です。
●「平等」と「公平」について
最後に「平等」と「公平」ですが、これは辞書で引いても分かる話なので深くは記載しません。
お金で考えると分かりやすいです。同じ内容の仕事をやらせて、頑張った人にも怠けた人にも同等の給与を与えるのが「平等」。頑張った人には多く給与を与えて、怠けた人は給与を下げるのが「公平」です。共産主義と資本主義の違いかもしれません。
これで、大雑把に全部説明しましたが、特に「中観」と「平衡」、「平均」と「客観」、「客観」と「中立」、「平等」と「公平」は、似ているようで全然意味が違うので、間違えるとヤバいと思います。
特に日本人として危惧するのが「中観」と「平衡」の違いです。
仏教と欧米で、全然違います。長文失礼致しました。
参考引用文献
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