カエルとお金と人


【劉海蟾とは俗に言う「ガマ仙人」と呼ばれる金蟾(キンセン)の親分である。
「劉海戯金蟾(りゅうかいぎきんせん)」は中国の招福画であり、魔除けにも用いられる。
故にカエルは田んぼの神様の使いであるため、財神としても祀られる。
カエルがお金の神様として言われるのもこれが所以である。】
身近なもので言うと「がま口財布」などを連想していただけると分かりやすいと思う。
この話を読んだ時に私が閃いたのは財布のことであった。まさに「ガマ」である。
気のせいかも知れないが、此の世(あの世→彼岸の世 この世→此の世)においても、「お金さえあればなんでも買える」というような拝金主義(お金を神様とする宗教染みた思想)に妄信している人は、だんだんカエルに似てくる。
顔は目の下が垂れてふくらみ、丸顔に近くなっていく、体型は牛蛙のように丸くてとても健康的な体型ではない。
「人にとってお金とは使うものであり、使われるものではない」とはよく言うが
かといって「お金とは悪い物だ」と言うのは言い過ぎで、使う者の動機やそれを受けた者の主観的評価によって変容される。
起源を辿れば純粋に「物々交換の間で生まれた引換券」であるのにもかかわらず、
善行に用いれば善。ワイロなどの悪行に用いれば悪と周囲に評価される。それも使う者の動機とそれを受けた者の主観的評価によって変わる点では紙などの普通の物品と同等である。
それに価値を付けるのは人間のなせる業(わざ)である。
「別に好き好きだし、どうでもいいじゃんか」と思う人がいるかもしれないが、
メリットがあれば喜んで勧めるのだが拝金主義はデメリットの方が多いのであまりお勧めしない。
お金とは人の集まるところに貯まるものである。
誰しも必ずお金を得る時は何らかの外部や他者を介しているはずだ。
そうでなければニセ札である。
起源は「物々交換の引換券」だったのでそれは当たり前である。
その中で「お金で買えないものはない、世の中は全て金だ」なんて言ったらどうなるか?
周囲はこう思う、
自分は物なのか?物品と同じように使われているのか?
そんな人に投資したいか?
そんな人の願いを叶えたいか?
そんなわけはない、上記のように思う人は自分だって得をしたい欲を持っているので逆に自分と酷似したそのような人は避けるし、嫌う。
拝金主義者に「全てがお金で買えるならあなたもお金に使われてるの?」と聞いてみるといい。
確実に「自分は特別だから違う」という類の回答しか返ってこない。
そんな人は誰しも避ける。怪しい宗教団体の教祖か何かと大差がないからである。
人が逃げればお金も逃げていく。
結果的に拝金主義者は淘汰されるのだ。
拝金主義者の下に残る者と言えば、その人を蹴落として財産をもぎとるために一時的に信頼と言う仮面を被っている裏切り者である。
自分の幸福よりも、他人の不幸を願う神経症的な人物が多く集まってくる。
類が友を呼んでいるだけなので当たり前と言えばそうである。
拝金主義者に関わらず、図に乗っている人間と言うのは一番操りやすい。
煽(おだ)てれば文字通り、手のひらの上で踊るように思い通りに踊ってくれる。
そこを摂取しようとする裏切り者は見逃さない。
最後にはそのように飢えたハイエナたちにも捕食される。妬(ねた)まれれば病気にもなる。
威張っていて傲慢な人は咳(せき)をしていることが多くないだろうか?
愚痴を言い過ぎると喉(のど)を病むからである。
怨まれれば腰だって痛み出す。
責任を負い過ぎれば、文字通り、肩が重いし、痛んでくる。
怒りっぽければ高血圧に伴う脳卒中で早くして死ぬ。癌にだってなる。
(また後に記述するが病気には全てメッセージがある)
彼らに敬謙な仏心や何らかの神に対する信仰心があろうか?
否、「自分は特別」だと思っているので神様のような自分と介在する存在を許さない。故にニヒリスト(虚無主義者)である。同時に「目に観えない世界」は信じず、科学だけを聖書のように信仰している場合が多い。
そういう人が死んで崇められるだろうか?
彼(あ)の世にはお金は持って逝けないのだ。
此(こ)の世では遺産争いの挙げ句の果てに「死人に口無し」で死後も悪口を言われ、その人の死体や墓さえも陵辱される。
私の知り合いで数億円の遺産を目当てに、夫と妻で財産主の祖父を殺し、妻が近所に住む男と遺産分配約束の元に共犯して次の財産主である夫を殺し、最後に妻は共犯した男も殺したという体験談があるが、まさに修羅道だ。結局、妻は逮捕された。
現世利益だけを求めた拝金主義者の末路である。
お金集めが趣味のように好きな人は良い。
本当に「好きこそ物の上手なれ」で大成する。
単に好きなので「人より勝って見下そう、自分が万民を操ってやろう」という劣等感に満ち満ちた動機がないからである。
動機に神経症的な競争があるからおかしなことになるのだ。
お金が万能の物のように錯覚すると必ず失敗する。
そこの違いが大きい。
人間ガエルだって劉海蟾のような神様に試されているのかもしれない。
過信や慢心は慎んだほうが良い。
この回の話を読んで個人的に気付いた解釈だが、民族説にしておくのは勿体無いほど的を射た話だと思った。
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