体罰あるいは過保護すぎるのは悪か?

体罰あるいは過保護すぎるのは悪か?
僕自身もこのディペード(?)を大学の時にやったことがあるのですが、おそらく「体罰はいけない!」→「では過保護すぎたらいいのか!?甘やかしすぎないか!?」→「過保護過ぎてもいけない!」で極端に意見が割れ、
最終的に実体験を語り出して「自分は厳しく育てられたから体罰賛成!」とか独善で過激な人が自己中心的に言い出して、
その人の被害体験の傷を舐めないように周りが気を遣って、結局「人によるよね」みたいな何の論理性もないディペードとも言い難い同情的な決着を迎えることが多いと思います。
自分は厳しく育てられたことに自信を持ってる人は、そんな自分を肯定しようと過激になります。
しかし、(あくまで相対的に)自分は厳しく育てられてない人(あるいは実は厳しく育てられていたかもしれないが実感がない人)、過保護であったことに自信を持って過激になる人はいません。
何事も「過激で攻撃的になる」という時点で、自分が肯定できていない、つまり自信がない証拠(自己が未熟な証拠)です。
結論から書くと、この体罰賛成か過保護容認かの極論の話は、独善で通す前に、2つの前提を考慮しなければなりません。
1つ目は、その人の環境や文化
2つ目は、動機と行動を分けて考えること
です。
1つ目、その人の環境や文化について
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アメリカでは子供と風呂に一緒に入ると性的虐待になる(ベットに入るのと同じ)そういう文化がない。
DSM-Ⅳ(精神分析診断の基準)ではそれを考慮して「その人の属する文化から期待されるものよりも著しく偏った内的体験および行動が持続的に起きていること」(その人の産まれた文化に注意しなさい)と記述されている。
部族が違えば、6歳まで母乳を与える部族もあれば、暴力的なのが当たり前な部族もある、
DSM-Ⅳでは前者は異常過保護であり、後者は虐待だが、”その部族の中では”実際には、子供は普通に大人になる。
親も子も周囲もそれが愛情が故と確信した認識があるため、不安があるとその不安を子供は汲み取る。
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(転載終わり)
痛快心理学 精神科医・和田秀樹
このようにアメリカでは子どもと一緒にお風呂に入ると性行為と同じように見られるのでしません。
(洋画などを見ても、母親がバスタブの横で子どもにシャワーを浴びさせてるシーンしかないのではないでしょうか。一緒に湯船に入っているシーンなどあまり見ません。)
しかし、日本ではそのような文化はありません。
アメリカでは「悪」なのに、日本では「善」とする。
体罰の話も同じように、国に限らず、その時代の環境と文化になければ「悪影響」しか及ぼしません。
逆に、あれば「善」とされます。
この基準はどこにあるかというと、一言には「周囲の共感」です。
また後に対象関係論について別途記載しますが、人の根本の本質は「他人との関係性を求める」ことにあります。
例えば、日本でも戦前~70年代くらいまでは、家でも学校でも体罰は肯定的にガンガン行われていました。
しかし今では、相対的には激減し、ネグレクト(放置)や身体・性的虐待という形で潜在化して、かなり否定的に見られています。
この理由も、周囲の共感の少なさにあります。
当時の日本は、儒教的な亭主関白の父性社会(男が問答無用で一番偉い。何をやっても許されるの考え方)で体罰を行なっていました。
しかし、親や先生に殴られた(否定された)としても、祖父母あるいは、友達の家に逃げ込んだり、近所のおじさんやおばさんが「痛かったねぇ」とか「いやぁ、そりゃ先生の方が悪いよ」とか「あなたも悪かったけど叩く方も悪いよ」とか、何らかの形で周囲(地域)に多くの共感の受け皿がありました。
それが今では、都市部への人口集中と核家族化で、地域の受け皿の役割が全くと言って良いほどなくなりました。(社会包摂組織の空洞化、と社会学では言います。)
もしその社会集団(部族)に体罰の行動慣習があれば肯定的に共感の受け皿があるので機能するのですが、
社会に、体罰ような文化・慣習がなくなれば、それはその行動自体が周囲に共感されない(共感の受け皿がない)ことになるので「悪影響」しか及ぼさなくなります。
このように「その人の環境や文化」を考慮することが大前提なのです。
2つ目、動機と行動を分けて考えること
(転載はじめ)
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ジョン・ボールビーの世界中でした調査によると「見捨てるという脅しは効果がある」と言っている。
この台詞を言う親は世界中にいる。
そのときは効果があるが、しかし長期的には効かない。
体罰も同じである。
体罰も短期的には効果があるが、長期的にはない。
しかも、いずれ社会に対する敵意を露(あら)わにしていく。
家庭内暴力もこれがため。
家庭内暴力のある子は反抗期がないのである。怖くて反抗期がないのである。
子供が親に「わーお父さんお母さんすごいなぁ」と本心思っていなくても言わなくてはならない。
客観的にみたら立派に見え、社会的には適応していることになるが、動機が問題になってくる。
行動と動機を間違えれば大変なことになる。
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(転載終わり)
ホームページの講演より 社会心理学者・加藤諦三
まず心理学的(統計的)には、体罰は悪影響しか及ぼさないことは明らかにされています。
(正確に言うと、心理学が発展するほどの先進国であればあるほど、後進国よりは環境の治安が「安全」であるので、他人を恫喝して脅かす行為とは縁遠くなる。)
そして前述したように体罰には短期的な効果しかなく、長期的には悪影響しかありません。
犯罪者の7割が過去に体罰を受けているという統計調査が示すことと同じように、体罰には短期的には効果があっても反抗意識が出てくるので長期的には効果がありません。
相手から見て「素直」に見えても「従順」に従っているだけで、抑圧が生まれます。抑圧はいずれ外界に投影されます。
体罰されて、それに対して従ったとして、「行動」は「素直」に見ても、「動機」も「素直」でなければ意味はありません。むしろそれは「従順」だけで抑圧になるので、ストレスになります。
「素直と従順」。具体的には「動機と行動」。これらは常に分けて考えなければなりません。
「釘バットを怖がってる人は、釘バットを怖がっているのであって、あなたを怖がっているわけではない。」という言葉を聞いたことがあります。
つまりその「暴力」が怖いのであって、その暴力をふるう「人」が怖いわけではないのです。
むしろ暴力をふるう人の方が、それだけ怖がっているのです。
彼らは個人の自由を主張するかもしれませんが、確かに人には「自由」というものがありますが、それは「相手」にもあります。
その「自由」を侵さないことが本物の「自由」です。
実際に発達心理学においては、「過保護に近い程度にほどほど」というポジションが一番、安定して成長します。
「過保護すぎる」という意見は、むしろ過激な反対派からの視点であって、過保護すぎたとしても悪影響のあるケースは少なく、むしろ自立が促進される事例の方が多いです。(また後述します)
結論として、この「環境や文化」や「動機と行動」を考慮した上で、更に「統計的に体罰は悪影響を及ぼす」という科学的・合理的な前提の上で、もし行うならば「動機」つまり「理由・根拠」をはっきりと説明する必要があるということです。
それなしに「何も言わずに自分の感情を汲み取れ!」と体罰を行ったとしても、それをやる人こそ「甘えている」(自分の感情を汲み取って欲しい)のであって、やられた相手は恐怖で、行動は「従順」するだけで動機は「素直」ではなく、むしろ抑圧して悪影響しか及ぼさないということです。
参考文献
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テーマ : うつ病(鬱病)、メンタルヘルス
ジャンル : 心と身体

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Re: No title
本当にそうですね(´・ω・)
No title
「適切で十分な愛・教育」を受けないまま大人になった人ほど、体罰を肯定する。
体罰は指導力・説得力・忍耐力・想像力が乏しい無能な教育者による責任転嫁に他ならない。
虐め・虐待にも通じる「言って聞かなければ叩くしか」「愛ある体罰もある」等の論理的間違いを解説@感情自己責任論
体罰は指導力・説得力・忍耐力・想像力が乏しい無能な教育者による責任転嫁に他ならない。
虐め・虐待にも通じる「言って聞かなければ叩くしか」「愛ある体罰もある」等の論理的間違いを解説@感情自己責任論